職場 あの時は……

1996年9月30日

9月に入って、いわゆる「五・十日」(ごとび)が来るたびに資金不足が発生し、手形の不渡りの危機が続いた。撤退経営者との交渉、「手形」の調査、日々の経理の入出金チェック、など。そして、まずは、賃金の確保。
信用失墜した会社の資金手立ては、ことごとく失敗した。この中で、賃金の遅配・欠配を避けるために、労働組合は自らの身を削った。9月初旬に、支部闘争資金を担保に4300万、組合員から1000万円、などなど。
地域の組合からも資金の提供・貸与があった。
9月30日には、地域の組合から共闘資金を担保にした3000万の提供・貸与をうけた。

この9月30日、支部組合役員が本部の書記さんと一緒に労金本部に行き、3000万を鞄に詰め込んで、銀行の閉店ギリギリに滑りこみセーフした。この日も、手形の不渡りを回避。

1996年7月22日

1年前 (1995年)、有力オーナーの撤退、アルバイト別組合・組織問題の発生、など職場をめぐる不安が深まる中で、組合執行部の体制が一新した。6年前に総辞職した執行委員も再任された。地域のある幹部は、「火中の栗を拾う覚悟なのか!」と感想を述べていた。
企業業績が1992年以来、赤字に転落し、職場の前途に暗雲。火の車の職場。
労働組合の主体性を維持しつつ、企業の安定は切実な課題だった。不明な会社資金の流出を追及をしながら、企業経営の立て直しに全力を挙げた。しかし、秘密裏に提携企業の撤退があり (6月)、経営陣が二転、三転した。再び職場の存続が問われる状況になった。
さて、新しい執行部体制の中で、OB会を作ろうとの声があがった。OBとの意思疎通は、和議下の職場再建に大きな力となった。この7月、天王寺でビアパーティー会が行われた ( 第1回目のOB会 )。

1990年6月

5月18日昼夜合同組合大会で、労働運動右翼再編反対・全国労働組合協議会志向方針が否決された。引継ぎ後、6月20日に当時の執行部は総辞職するすることになっていた。
引継ぎ期間中に、夏季闘争に取り組み、6月1日・2日には慰安旅行 (鳥取砂丘、湯村温泉、出石)が行われた。

1ヶ月前(5月18日)に開催された昼夜合同の組合大会で、労働運動右翼再編反対・全国労働組合協議会志向方針が否決され、その時の執行部が総辞職することになった。そこから1ヶ月、次期役員への引継ぎをして、この日、辞職して下野した。